すべて慰めは卑劣だ。絶望だけが義務だ。



 それは、道徳の時間だった。
 日直の号令の後。気怠く着席するクラスメイト。彼女は椅子に座らず空を見つめていた。僕の斜め前の席。彼女は座らず立っていた。空を見つめて立っていた。
 担任の視線を充分浴びてから、彼女は音もなく腰を下ろした。虚ろな目つきは変わらなかった。



 道徳というものは恐ろしい。授業の度にひやひやしているのはきっと僕だけではあるまい。例えばそうだ、今日の授業の内容の。

 人の気持ちを考えましょう。

 人殺しに家族を殺された人は殺人の瞬間の犯人の喜びを考え、理解し、共感しなければならない。いじめられている子供はいじめる子供の楽しさを理解しなければならない。なんという恐ろしい話であろうか。僕は身を震わせた。相手の気持ちは理解せねばならない。必死で自分に言い聞かせていると、存外に授業は早く終わった。


 彼女が僕を呼び止めたことは、少なくとも僕にとって好ましいことではなかった。なぜなら僕は早く家に帰って英語と数学と理科の復習をして明日の単語テストの勉強をしなければならないし、読みかけの参考書も早く読んでしまいたかったからだ。ラジオの英会話の講座も聞かなければならないし、塾の方の勉強も済ませないといけない。
 だが、彼女は僕が話も聞かずに帰ることを望みはしないだろう。相手の気持ちを考えなければならない。僕は極めて朗らかな笑みを顔に浮かべて彼女を見た。放課後のざわめきが少しおさまるまで待って、彼女はくちを開いた。
「たべものの味がわからないの」
「わからないの?」
「わからないの」
 彼女はぽつりぽつりと話し始めた。
 ケェキを食べてもあまくないの。レモンを齧ってもすっぱくないの。何を食べてもおいしくもまずくもないの。お花のにおいもわからないの。金木犀の香りが嗅ぎ取れないの。
 虚ろな瞳で淡々と語ると、それだけ言って彼女は口を噤んでしまった。僕は彼女の気持ちを考えようと必死になったが、どんなに考えてもわからなかった。




 いつもより遅かったのね。心配したのよ。
 母さんの低い声が台所から流れてきた。それはまるで音楽のように滑らかに流れていたので、毎度のことながら僕は申し訳ない気持ちになった。
 今日のお夕飯はクリームシチューにしようと思うんだけど、いいかしら?
 先程と全く変わらない声音に、僕は笑って頷いた。そうでないと母さんが心配するから。母さんはとてもやさしい。僕の表情がいつもよりも乏しいと、それをすぐに察してどうしたの、学校で何かあったの、話してごらんなさい、と変わらぬ低い声で囁いてくれる。僕はいつも笑いながらなんでもないよ、と答える。母さんに心配させるわけにもいかないし、実際何もないのだから。

 自分の部屋に入る。僕の部屋にはデスクとベッドしかない。本も服もクローゼットの中に入ってしまうから。
 早速デスクに座り、教科書を広げる。僕の頭の中には、もう彼女との会話の記憶はなかった。



欺かれるのではない、われみずからを欺くのである。



 その日、僕は学校の図書室で科学雑誌を読んでいた。オールカラーで色彩溢れるそれは、白黒の教科書よりもよっぽど面白いし内容も豊富だ。僕は時間も忘れて読み耽った。だから、突然肩を叩かれたときに飛び上がらんばかりに驚いたのも仕方のないことなのだ。
 驚いて振り向いた瞬間、頬に冷たいものが触れた。
「ひっかかった」
 彼女は僕の頬に指を突き立てたまま、嬉しそうに微笑んだ。近頃流行っている遊びを思い出して、僕は顔をしかめた。そんな僕にお構い無しに、彼女は僕の隣の席に座ってニーチェを読み始めた。

「ねぇ」
 暫く経って、彼女が話し掛けてきた。僕の方はと言うと、気が散って読書どころではなかった。
「何?」
「私の声、わかる?」
 いきなり何を言い出すのだ。
「わかるっていうか、聞こえてはいたけど…」
「私、わからないの」
 ページを捲りながら彼女は呟いた。その声は小さく、高い。
「私は声を出すの。出すんだけれど、それが他の人の声かもしれないって、そう思うの。だって、」
 ふぅ、と息を吐き出す音が聞こえた。
「音が全部同じように聞こえるんだもの」
 それにね、と声が低くなった。
「この本と自分の違いもわからないの。もしかしたらこの本は私の身体の一部なのかもしれないって、そう思えるほどに」


感覚は欺かない。判断が欺くのだ。



 僕はいつも屋上で昼食を取っている。ここに続く階段はがらくたがたくさん散乱していて、誰も屋上には上がれないのだが、僕はちょっとした道を知っていたからそこを使ってここに通っていた。多分、僕の他にもその通路の存在を知っている人はいるだろう。僕自身、その道は先輩から教わっていた。

「あれ?」
 と、聞き覚えのある声がしたので僕は振り向いた。屋上の片隅に、彼女が立っていた。
「キミ、ここ知ってたんだ」

 僕は頷いた。彼女は黒いリボンを結び直しながら、僕の傍に来た。 「そのお弁当、お母さんの手作り?」
 僕は頷いた。
「君は御飯食べないの?」
 そう訊くと、彼女は苦笑して頷いた。
「最近食欲がなくて」
「どうして?」
 彼女はダイエットの必要がないぐらいに痩せていたし、僕の知り合いの男子生徒達が彼女に好感を抱いていることも僕は知っていた。
「この前、言ったよね。本と自分の違いがわからない、って」
 僕は頷いた。箸は止まっていた。
「だからね、食べ物も自分みたいに思えて。気持ち悪くて食べられないの。キミ、自分を食べるなんて真似できる?」
 できない、と僕は答えた。彼女はかさかさに乾いた指を光に翳した。白い手の甲をひらりと裏返して、さらに白い掌を見る。
「この指、どこからが上で、どこからが下なのかしら」
 僕も彼女の手を見て熱心に考えたけれど、彼女は答えを期待してはいないようだった。虚ろな眼の焦点は、どこにも合っていなかった。
「右と左の違いって何なのかしら。」
 彼女は空を仰いだ。翼があれば飛べそうだなと、僕はぼんやり思った。


無秩序を忍ぶよりは、むしろ不正を犯したい。



 それ以来、彼女は毎日屋上にやって来た。ぽつりぽつりと会話をしながら、昼休みは過ぎてゆく。
 ある日、彼女が言った。いつものように虚ろな眼で。
「空と雲の境目が見えないの」
 突然彼女は振り返り、泣きそうな顔で笑った。
「わたしとあなたの違いがわからないの……」
 ぽつりと呟いて、彼女は笑って事切れた。



 おかえりなさい。早いわね。
「ただいま。母さん」
 お菓子を作ったの。あなたの口に合えばいいんだけれど。食べてみて?
 僕は母さんの声には答えず、台所へ続く扉を開けた。
 どうしたの?ここには入ってはいけないって言ったでしょう?
 声を無視して無人のキッチンに入る。
 入っちゃ駄目!駄目よ!
 母さんの声に答えずガスコンロの傍のパネルを指ではじいて開く。絶叫と共に壁から何本ものアームがせり出し僕に近づくが触れることはできない。
 薄っぺらなボタンを押して、僕は初めて心から微笑する。


『システム"マザー"を停止させます。よろしいですか?』


『"yes" or "no"?』



 ボタンに触れる。ゆるやかな停止音と同時にアームが壁に戻る。
「さようなら、母さん」

 呟いて僕はもう一度笑んだ。微かに、甘い香りがした。


わたしは人間だったのだ。そしてそれは戦う人だということを意味している。





Quotation from Johann Wolfgang von Goethe








back