hands





 学校から帰るとすぐに手を離し、部屋に放してやるのが私の日課だ。
 それらは簡単に離れる。するりと。
 まず、左手首を握って手首をひねる。すると次の瞬間には私の左手は腕から離れている。そして左手は同じようにして右手を解放する。
 彼らは自由に床を這ったり棚をよじ登ったりして遊ぶが、もちろん義務もきちんと果たす。ピアノの練習もするし、宿題も手分けして片付ける。有能なのだ。
 そして彼らはやさしい。眠るときは枕元で一緒に眠ってくれるし、子守唄の代わりにそっと頭を撫ぜたり髪を梳いたりしてくれる。私が悲しくて泣いている時は頬を撫ぜて涙を拭いてくれる。

 私たちはみんなお風呂が好きだ。右手は湯船の縁に沿って歩くのがお気に入りだし、洗面器で水浴びをすると左手は機嫌が良い。どちらも私と一緒に深い浴槽に入る勇気は持っていないが、私たちはみんな窓ガラス越しに沈んで行く色の移り変わりを見つめたり、正方形の白い天井を見上げるときに幸せを感じる。

 喧嘩をするときもある。
 例えばそれはピアノのコンクールで私の身体がくっついていたがために彼らの力が十分に発揮できなかったり(私は腕力がない)、右手と左手がお気に入りのペンを取り合ったりするようなときのことだ。でもすぐに仲直りする。なんと言ったって私たちはひとつなのだから。仲直りの印に、彼らは互いにマニキュアを塗り合って私の髪を梳いてくれる。私たちはひとつなのだ。

 彼らの指には日頃の運動の成果か、うっすらと筋肉がついている。右手も左手も、興奮すると薬指に脈が浮き上がる。彼らは美しい。
 ふたりはペディキュアを塗ってくれる。やはりというべきか、右手は右足を、左手は左足を贔屓しているようだ。私はこんなに性質の良い手を持つことができた幸運に感謝する。

 私は時折り、自分が彼らのバッテリィに過ぎないのではないかという気持ちに捕われる。ただの充電装置なのではないかと。
 一度、左手を落としてしまったことがある。それに気づいたとき、私は人生で初めて戦慄を覚えた。私は駅から家までの道を隅々まで探した。もし野良猫に襲われていたら?鴉に突付かれていたら?右手は震えながら私の手首に掴まっていた。
 日が暮れる間際になって、ようやく茂みの中に身を潜めていた泥だらけの私の左手を見つけたとき、私は自分がただの充電装置ではないことを知った。私は右手で左手をそっと拾い上げ、いつも彼がしてくれるように頬擦りをした。


 朝。私は両手首に彼らを嵌めて、朝食を食べて顔を洗い、髪にドライヤーをかける。私がいないとできないこともあるのだ。でも彼らに口はないし、顔も髪もないのだから、こんなことは必要ない。これらは私のための行為だ。そしてこれらは彼らがいなければできない。私は自分を巣の中で口を開けて餌を待つだけの雛鳥のように感じる。
 私はときどき彼らがうらやましくてたまらなくなる。彼らは自由で、身軽だ。ピアノも勉強も、私のためにしてくれているのだ。仕方がないとはいえ、私は彼らに申し訳なく思う。


 右手は冒険好きなので、よく爪を割る。擦り傷もよく作る。性格は陽気で、音楽も明るいものが好きだ。出先で私にくっついているときでも音楽が流れればリズムに沿って指を弾ませる。
 彼は窓の桟の上を爪先立ちで歩くのが好きで、いつもそうして遊んでいた。最初は危ないよと止めたけれど、でも彼はそれが大好きだったので止めなかった。
 ある日いつものように彼が窓の際を歩いていると、彼をめがけて鴉が飛んできた。彼は避けようとして、部屋の中ではなく窓の外へ落ちた。桟に停まった鴉を追い払い慌てて左手をつけて庭に出ると、骨が折れて指が捻じ曲がった彼が転がっていた。拾うと手の平の上から指がだらりとこぼれた。
「あらまぁ、かわいそうに」
 顔を上げると隣のおばさんが箒を持って立っていた。最近の鴉は性質がわるいから。いい子だったのにねぇ。本当に残念だわ。皺の刻まれた手が規則正しく箒を揺らしている。やけに右手が冷たいと感じた。

 かかりつけの手の専門病院に着くと、医者はすぐさま折れた指を固定した。両手で私の右手を持ち上げぐるぐると角度を変えて隅々まで検査する。手を遊ばせるときはちゃんと目の届く範囲で遊ばせないといけませんよ。窓辺で遊ばせるなんてもってのほかです。近頃は鴉だけじゃなく手の誘拐事件も起こっていますからね。まったく物騒な世の中だ。先週もニュースがあったでしょう、手をぎっしり詰めた袋を密輸しようとして掴まった事件が。警察自ら手を囮にして犯人を突き止めたんです……

 それから医者は手首を縫合し、三日後にまたおいでなさいと言った。ロビーには私と同じく怪我をした手を抱えた人や、義手の患者が座っていた。

 抜糸をしても、 数週間経って包帯が取れるようになっても右手は動けるようにならなかった。いくら外そうとしても手首から離れなかったし、右手は全く私の意志のみでしか動かなかった。音楽に身を震わせることも、早く外してと催促するようなこともなかった。お風呂に入るときも私にくっついて湯船に浸かった。あんなに怖がっていたのに。

 左手はずっと私とくっついていたがった。私も彼を離したくなかった。あまりに下手になったのでピアノの練習は止めてしまった。私は自分で、マニキュアを塗るようになった。







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